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大量の金塊はフィリピンに眠る

大量の金塊をフィリピンに隠匿したのはいかなる”機関”なのか?

日本がアジアで偶然手にしてしまった金塊の処理にこの”機関”が登場します。実際に手にしたのは日本帝国陸軍であるがその後の作戦はこの機関が引き継いでいます。作戦の名は「金の百合作戦」。一部の人はこの作戦を日帝によるアジアにおける金品強奪作戦と言いますが、アジアにあった金塊の量と戦後回収された量を比較すると強奪だけでは説明が付きません。インドネシアで座礁したオランダ船に積まれていた女王ユリアナの大量の金塊(右の写真でUBSの刻印のある金塊が女王ユリアナの財宝と言われている。)に代表されるようにヨーロッパ諸国は自分達の財産をヨーロッパ戦線からアジアに非難させた事は事実です。「金の百合作戦」は金塊を処理する為の作戦でした。

この”機関”はアジア諸国に金の精錬所を作り、鋳直してから日本に送り、残った金塊を一時、シンガポールトンネルに保存し、フィリピンに送りフィリピンに隠匿しました。この”機関”の作戦は戦後も続きました。この戦後の”機関”の活動が重要です。

”機関”は日本帝国陸軍、海軍とは一線を隔した組織でした。大量の金塊の輸送、隠匿に陸軍、海軍を自由に使えた組織でした。諜報組織であり、絶大な力を有していました。日本帝国陸軍、海軍の中枢はこの”機関”の存在を認識していたとは言え、この作戦に組してはいなかったでしょう。

大量の金塊のフィリピンへの移送は第二次大戦の前期に既に完了していたと見られます。アメリカが再度フィリピンに上陸し消耗戦の兆しを見せる前に大量の金塊の隠匿は終了していました。

”機関”はフィリピンで数ヶ月をかけて鍾乳洞を調査しています。詰まり、隠匿場所は大半が鍾乳洞です。特にルソン島は鍾乳洞だらけです。マニラ近郊にも多数鍾乳洞が有ります。私はフィリピンで少なくとも7つの鍾乳洞の中に入っています。

”機関”は戦後フィリピンで多数発生したトレジャーハンターの為に大量の金を隠したのではないのです。ジャパニーズサインもマークも残していません。測量技術に乗っ取り、正確な位置情報を持っていたに過ぎません。財宝探しの謎解きは存在しません。最終的な隠匿と回収トンネルを作ったのは《松山(ホッキ)部隊》です。正確な位置情報は”機関”だけが持っていました。部隊の隊員の移動は何時もトラックの中、作業場所は何時も山の中、隊員は大体の場所は分かるが正確な位置情報が無い限り回収トンネルの入り口を特定する事は不可能です。部隊には白い服の男達が数人何時も一緒に居ました。彼等は兵隊ではありませんでした。(フィリピン人日本兵の証言)

当時、どのような目的でフィリピンに大量の金塊を隠匿したのかは推測の域を出ません。日本の敗戦を見越し、終戦を見越し、その後の事を考えての隠匿とは考えられません。日本がまだ戦況が優勢だった頃の作業でした。しかし、ヨーロッパ諸国が大量の金塊を消失した事は連合国側にとって痛手であったのは事実です。戦況の中で有利な交渉手段として利用する目的があったのかもしれません。軍が掌握出来なかったから交渉道具として使えなかったという介錯も出来ます。推測の域を出ません。

大量の金塊はフィリピンに隠匿されました。サンフランシスコ条約で日本は、全ての財産を放棄した事になっていますが、はこの金塊の事には触れられていません。サンフランシスコ条約で触れられていない終戦時の日本の財宝はフィリピンに隠匿された金塊だけではありません。降伏から占領軍が日本に到着するまでに日銀等から持ち出された金銀財宝の行方、大陸からの引揚者が持ち帰った貴重品(日本到着時に官憲が摂取している)の行方が明らかになっていません。

全世界が大量の金塊の存在を知りながら、ヨーロッパ諸国の思惑、アメリカの思惑、日本の思惑を抱えて戦後処理が始まります。ヨーロッパ諸国は自国に”金”が無いとなると戦後の経済活動を開始できませんでした。戦前の現物取引の金の取引を廃止し、名義変更だけの取引に変えてしまいました。特定のブリオンバンク以外の金の取り引きは出来無いようにしてしまいました。戦後ヨーロッパ諸国は自分の金庫が空なのに、金があるとして経済活動を開始しました。ブリオンバンクはアジアにはありません。経済大国の日本にもありません。あったら欧米が困るのです。もし、日本にブリオンバンクがあり、日本が大量の金をそのブリオンバンクにぶち込んだら、その時点で日本は第二次大戦に勝利するのです。アメリカは日本が隠匿した大量の金塊の事を知り、自分達の戦後の世界の政治状況を有利に導く為に利用する事にしました。日本は戦後復興の為に実利を取りました。勿論、私利私欲のために動き、巨万の富を手にしたやからはアメリカ人、日本人に多くいたでしょう。その代表はマッカーサーです。

欧米では日本が隠匿した金塊を Black Gold と呼んでいます。戦後直ぐにこの金塊の処理が始まっています。フィリピンで戦後直ぐに回収したのはサンタロマナです。スイスのUBSに在る、サンタロマナの口座がCIA長官の名義に移されています。終戦当時から”機関”の情報がアメリカCIAに流れていたと思われます。サンタロマナは日本が大量の金塊をアジアで押さえた事を良く知る人物です。そして、如何見ても、CIAです。金塊隠匿の場所は”機関”からの物と思われます。

フィリピンでの本格的な回収はマルコス時代に入ってからです。”機関”のメンバーがマラカニアン(フィリピン大統領府)にサンタロマナと宿泊して行われました。
サンタロマナは大量の金塊を回収する為に周到な準備をしています。イメルダを養女とし、マルコスと結婚させ、マルコスを大統領にしています。その上で”機関”を呼び寄せ回収を行っています。
この回収は当然CIAと共同した作業です。回収された金塊はニュージャージーに送られ精錬され、国際標準形、重さにされ、欧米のブリオンバンクに送られています。特にUBS、CITIBANKにです。この二つの銀行がCIAの銀行と呼ばれる所以です。

”機関”は日本への橋渡しをしています。アメリカ、CIAの資金となった Black Gold は日本にM資金となって還元されています。この仲介をしたのは”機関”のメンバーでしょう。

回収はサンタロマナ(CIA)日本の”機関”が中心でした。"機関”の役割は隠匿場所を特定するのが主な役割でした。マルコス以下フィリピンのメンバーは回収をした実行部隊です。

サンタロマナの娘と、日本のメンバーが夕食後合奏をしたりして楽しんだ事を”機関”のメンバーより私は伺っております。

サンタロマナが亡くなり、マルコス政権が不安定になった時点で”機関”は回収を一時中止して日本に戻っています。
全てを回収してはいません。簡単な物から順に回収を行いました。結果として、回収の難しい物が残っています。”機関”はフィリピンの政局が安定したら回収を再開する積もりでした。

マルコス政権が倒れたのは1984年でした。私が”機関”のメンバー一人と接触したのが1995年です。その時にはマラカニアンに寝泊りしたメンバーはご高齢で殆どの方が亡くなられていました。1997年にはお二人になり、1999年には私に情報を下さった方も亡くなりました。現在、もう一人の方が生存なされているか分かりません。

”機関”による今後の回収は不可能であり、1984年以来フィリピンに大量の金塊が眠っています。